伊万里赤凛線蓋付向付大振
伊万里赤凛線蓋付向付大振

伊万里赤凛線蓋付向付大振

色絵
江戸中期、1750-1780年代前後
D ①11.9㎝(11.7) ②11.8㎝(11.6)
H ①6.5cm(蓋付8.7) ②6.6㎝(8.8)
共に完品 ALL SOLD
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凛線文はやっぱりお洒落です。人気の理由が解ります。
江戸中期末の赤凛線蓋付向付大振です。
シャープな器形が凛線に似合います。
お洒落です。
内帯文様にも細い四凛線、全体を粋に仕上げています。
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当時、蓋付茶碗、ご飯茶碗はまだ普及していませんでした。
(普及は1800年を過ぎてから、幕末期にはかなり普及)
大振蓋付向付として20客単位で出荷されました。
1760年代、
将軍が初めて磁器の御飯茶碗を使ったという記録があります。
磁器は高級品で庶民は木の器、素焼きの土物等を使用していた様です
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Condition
*キズではありませんがご確認戴きたい詳細
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微妙に真円ではなく楕円気味
(蓋左右畳付がつく状態で中央手前後に1㎜弱の隙、画像参照)
(蓋が滑りやすい、中にお料理が入るとかなり安定)
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極小灰振・釉切・色濃淡・スレ・ムシクイ・凹凸多少
(NO2の画像は6番目から最後まで)
詳細はお問い合わせ下さい。
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伊万里について少しだけ…
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江戸初期に日本初の磁器が生産され伊万里と呼ばれました。
(1610年代)
江戸時代に作られた伊万里全てを古伊万里と呼ぶことが多いです。
(現在の佐賀県有田周辺で作られ伊万里港から出荷)
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江戸後期の伊万里について知っておきたい事
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江戸幕府体制に陰りが現れ国が徐々に騒がしくなります。
日本初の磁器生産を果たした伊万里の里、
有田周辺では、
文政期に主な窯場が台風の大火におおわれ、大きな被害を受けました。
伊万里陶工たちの一部は諸藩に散らばりました。
技術の流失です。その後磁器生産が各地で始まります。
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文政期の大火事で有田皿山周辺は焼け野原となりました。
佐賀藩は、窮乏から生まれた近代化への改革を始め復興を遂げます。
藩の援助もあり、伊万里も復興を果たしました。
輸出の再開が始まり販路が広がります。
藩に残った熟練工たちの技術を生かし、上手伊万里が多く生産されました。
幕末期の銘品は意外に多いです。
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九州陶磁文化館の柴田コレクション にも、
追加寄贈された銘品が多くあります。
最盛期伊万里の技術が、後世に受け継がれた確かな証とし、
柴田氏から多数寄贈されました。

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