伊万里について:伊万里の時代名称・分類

私達が普段使っているセトモノ、真っ白な綺麗な磁器は、400年程前、江戸時代初め、日本初の磁器、

伊万里という名前で誕生しました。

現在の佐賀県有田周辺で作られました。現代の有田焼です。 (佐賀県の伊万里港から出荷、伊万里と呼ばれた)

伊万里は日本初の磁器です。

耐火性が強く、1200度-1300度の高温で焼かれています。(薄くて軽くて強い美しい磁器)

(陶器は主成分が粘土、800〜1000度、厚めで重く強度は低め、温かみのある器)

磁器生産に不可欠な陶石は、朝鮮から渡ってきた陶工が有田の泉山で発見しました。

磁器作りは成功、その技術を広く陶工たちに伝授しました。

900年代に始まった世界初の中国磁器は、伊万里誕生の江戸時代の初め、1600年代、既に世界中に広まっていました。 伊万里は、中国磁器に憧れた日本人にとって待ち望んだ日本初の磁器となりました。

磁器作りは財政難の藩も参加し、官民共同で窯業産業として大きく発展しました。 国内富裕層の大量注文、そして大量の伊万里が欧州各地へ渡りました。

(飾って使って楽しむ伊万里ブーム、欧州貴族たちのトレンドになった)(藩の財政も助けた)

欧州各地の美術館•博物館には、今も多くの伊万里が飾られています。

伊万里にはいろんな種類がある⁈

伊万里(古伊万里)は、時代によって名前が変わったり、同じ時代の伊万里もランク⁈により数種に分類されます。

江戸初期の伊万里、最初の伊万里を初期伊万里と呼びます。

(1610-1650年代前後)

 初期伊万里の特徴は、

 後の伊万里に比べ厚みがあり、高台が小さく、生掛けで作られています。

 (成形乾燥後に文様を描く、文様乾燥後、釉薬を掛け登窯に入れる)

 生掛け効果で釉薬は優しく、ふっくらした仕上がりです。

江戸前期の伊万里、古九谷様式、または古九谷と呼びます。

(1640-1670年代前後)

 通常は色絵を古九谷、染付を藍九谷、鉄釉を吸坂手と呼びます。

 青磁•白磁•瑠璃等は古九谷の前後につけ呼ぶ事が多いです。

 (生掛けと、後の時代に始まった素焼きを施した古九谷有)

 (この頃始まった初期の鍋島は、古鍋島または初期鍋島、または松ケ谷)

 (この頃始まった柿右衛門は、初期赤絵または初期柿右衛門)

江戸中期の伊万里には数種の分類があります。

 (1670-1770年代前後)

 ❶盛期鍋島(1670-1730年代)

  色絵鍋島•藍鍋島•鍋島青磁等があります。

  採算を度外視した献上品、通常、伊万里の枠に入れる事はありません。

  (後期鍋島は1750-1860年代前後)

  (1750-1800年代前後の藍鍋島を中期鍋島と呼ぶ事もある、色絵は無)

 ❷型物•準型物(1670-1730年代)

  染錦に金彩を加え豪華絢爛に仕上げているものが多いです。

  (金襴手とも呼ぶ)

  献上品として、また国内富裕層向に作られた伊万里最上手です。

 ❸柿右衛門(1670-1730年代)

  濁手柿右衛門•色絵柿右衛門•染錦柿右衛門• 藍柿右衛門•青磁等があります。

  (1670年に柿右衛門様式が確立された、と言われている)

  (真っ白な磁体、濁手柿右衛門は土の配合が難しく希少)

 ❹伊万里(1670-1770年代前後)

  色絵•染錦•染付•白磁•青磁•鉄釉等があります。

  伊万里での江戸中期は、100年程の幅があります。

  (変化に特徴がない為、1750年代から江戸後期とする事もある)

  (江戸中期前半と後半で分けると伊万里の特徴が解り易い)

江戸後期の伊万里

(1780-1860年代前後)

 色絵•染錦•染付•白磁•青磁•鉄釉等があります。

 (1830年代以降は幕末手ということが多い)

*参考に!図式にすると…..

初期伊万里1610_____________1650

古九谷      1640_____________1670

柿右衛門            1670_________________1730

*盛期鍋島           1670_________________1730

*古鍋島          1650___1670

*型物             1670_________________1730

*伊万里            1670______________________________________1860

*参考に!古九谷の名前は紛らわしい⁈

 古九谷は半世紀程前迄、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。

 昭和20年代、古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではないか

 という説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。

 「九谷論争」です。

 有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。

 有田説を支持する説が諸外国でも登場します。

 その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。

 素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。

 終結後も古九谷の名称は残りました。

 ただ、その後も調査は続いています。

 疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思います。

参考に!藍柿の様な藍九谷、ある?

 過渡期の作品にはどちらかな?というものもあります。

 扱う業者によって藍柿•藍九谷と違う呼び方をする事もあります。

 過渡期には、様式等が入り混ざった印象の面白いもの、あります。

初期伊万里から古九谷迄、30年足らず、驚異的な進歩の秘密?

江戸初期に日本初の磁器、伊万里が誕生、日本初の色絵、古九谷は初期伊万里のすぐ後、1640年代には登場しています。

この驚異的な進歩、躍進の理由は⁈

一番目はやはりお金⁈ 毎年、江戸幕府に献上しなければならない器は、

世界初の磁器、高価な中国磁器を藩が購入し献上⁈ 藩財政を圧迫した様です。

参勤交代も大変な出費、他にグルメ食材献上も多々、財政問題が大きな理由の一つ、だったんですね😊

それと…

古九谷の時代、日本初の磁器, 伊万里の器は高級品でした。国内の一握の富裕層、諸藩藩主や豪商達に好まれました。

(大量需要により、驚異的な進歩を遂げたと考えられる。多種多様な器を大量に生産、20客単位の出荷)

当時の古九谷は最上手からちょっと粗めの物迄、驚く程多く現代に受け継がれています。

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