古九谷白磁紗綾形石畳文軍配団扇四寸端皿
古九谷白磁紗綾形石畳文軍配団扇四寸端皿

古九谷白磁紗綾形石畳文軍配団扇四寸端皿

古九谷白磁 SOLD
江戸前期、寛文期、1650~1670年代前後
D12.3x8.5㎝ H2.4㎝(2.1) 共に最大
完品 SOLD
詳細はお問い合わせ下さい。
:
クイズ?
この図の中に、手に持つある物が二つ描かれています
さて、なんでしょう?
軍配と団扇?
くっきり、はっきり、解りやすい、クイズにならない?
:
どの角度から見ても本当に面白い、です。
文様が鮮明だからかな? と思います。
:
愉快で楽しい端皿です。
団扇と軍配、紗綾形文と石畳文、
小さな端皿にこんなに嗜好を凝らすなんて…
一期一会、
茶会のお客様に楽しんで戴く為の注文品、
20客単位で出荷していました。
(残念ですが今回は1客のみ)
:
江戸前期、日本初の磁器、伊万里は、
当時の富裕層、お茶を嗜む人達の注文品でした。
(最近は20客揃って旧家から出る事も少なくなりました)
:
特別な日のみに使う器、お客様用、
お祝い事・茶懐石・酒席の宴会等の勝負うつわ?
そして、他に普段使いも注文した様です。
どちらも、
箱にしまい、多くの使用人たちが大切に扱いました。
古九谷が現代まで、驚く程多く受け継がれている理由の一つ、
では、と思います。
:
柴田コレクションP3、No255 同手掲載
:
画像が上手に撮れませんでした。
磁体は白く、青みを帯びた透明感のある釉がかかり
とっても綺麗です。
3番目の画像にもう少し青みが加わった感じです。
:
condition
*傷ではありませんがご確認下さい
:
高台畳付から側面に制作時の8㎜程のシワ隙有
(ハマグリ風に釉下ジカン•黄染が周囲に有)
(説明が困難です。拡大画像をご参照下さい)
:
畳付がつく状態で右手前に紙一枚の隙有
(手前を押し微揺れ、薄ランチョンマット使用で解消)
紅縁に極小ムシクイ•紅濃淡ムラ漏•凹凸多少
極小灰振•釉切•釉下シワ•凹凸多少
:
古九谷をもっと詳しく….
古九谷は様々な種類があり、意外と多く現存しています。
:
日本初の磁器、初期伊万里のすぐ後の古九谷です。
当時の富裕層の大量需要がなければ、多種多様の器を大量に作ることはできません。
驚異的な技術進歩は、大量需要により生み出されたと考えられます
:
江戸初期に日本で初めて陶磁器が生産され伊万里と呼ばれました。
最初の伊万里を初期伊万里と呼びます。(1610年代)
:
古九谷は、初期伊万里のすぐ後、寛文期前後に作られた色絵磁器です。
驚異的な技術進歩により、日本初の色絵磁器が誕生しました。
(1640年代)
色絵は古九谷、染付古九谷は藍九谷、錆釉古九谷を吸坂と呼びます。
また青磁釉・瑠璃釉・白磁は、古九谷の名称を上下いづれかに足し呼ばれる
事もあります。
寛文期前後は、様々な技術や様式が生まれ、淘汰された興味深い時代です。
(1640年~1670年代前後)
後の柿右衛門様式は古九谷のすぐ後、延宝期に確立されたと言われています。
柿右衛門様式の登場で古九谷は役目を終え終了します。
:
なぜこの時代の伊万里が古九谷と呼ばれているのでしょうか?
:
半世紀程前迄古九谷は、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。
昭和20年代、古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではないか
という説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。
「九谷論争」です。
:
有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。
有田説を支持する説が諸外国でも登場します。
その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。
素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。
終結後も古九谷の名称は残りました。
ただ、その後も調査は続いています。
疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思います。

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